いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日は最近パンを食べることが少なくなったRが店番です。
外出を自粛して、行動範囲が狭くなってからずいぶんたちますが、そういえばいわゆるブーランジェリー、焼きたてのパンを売っている店にもしばらく行ってないなと思ったのは、昨夜パンの夢を見たからなんですよ。シロップに浸したクロワッサン生地でアーモンドクリームを包み、さらに外側にもアーモンドクリームをかけて焼き上げた“クロワッサンザマンド”。カロリーの塊みたいな、罪悪感満載の代物です。
なんで、そんな夢を見たのか。特に、それを食べたいと思っていたわけでもないし、本で読んだとかTVで見たとかでもありません。なぜかなと思っていたら、「菓子パンの夢は、おしゃべりの楽しみ」と解釈されると書いてある本を見つけました。日清製粉株式会社編『小麦粉博物誌』です。
スイスの夢の研究者ハンス・クルトの『夢の象徴事典』によれば、小麦を巡る夢は次のように解釈される。
(日清製粉株式会社編『小麦粉博物誌』より)
小麦畑の夢――豊かな生活
小麦粉の夢――名望と称賛
小麦パンの夢――幸福と祝福
古いパン、硬いパンの夢――やがてくる困難
(中略)
できたての柔らかいパンの夢――見知らぬ客
菓子パンの夢――おしゃべりの楽しみ
そういえば最近、雑談をすることも少なくなっているので、「おしゃべりの楽しみ」を味わいたいという気持ちの表れでしょうか。この『小麦粉博物誌』はとても面白い本なんです。地球上で最も多く栽培されているだろう穀物の小麦粉にまつわる話題が、小さなコラムにまとめられて、アイウエオ順に収められています。目に付いたものを挙げてみると、
チャップリンのパン屋
てんぷらのなぞ
ドーナツの丸い穴
信長はパンを食べたか?
パスタ格言集
などなど。「粉もん文化」などと言い、小麦粉料理に目のない人は一定数いるようなので、興味を引かれる人もいるのではないでしょうか?
そんな小麦粉にまつわるさまざまなこぼれ話に触れることのできる本書で、私が目を引かれたのは「ゴッホの麦畑」という項。これは1、2の二本立てになっていて、それぞれゴッホの〈ラ・クロの平原〉と〈カラスのいる麦畑〉という2つの絵について書かれています。
なんという明るい絵だろう! ゴッホの〈ラ・クロの平原〉は。
(日清製粉株式会社編『小麦粉博物誌』より)
72×92cmのカンバス一杯に麦畑の黄色が波打っている。とくに近景の粗く描かれた麦の太い茎と光る穂先の黄色の階調の力強さ! やがて中景から遠景へかけて、「ぼくはいま新しい題材、見渡す限り緑と黄色の畑を描いている」という弟テオドルへの手紙そのままに麦畑と採草地が横じまに広がり、遠くに紫の低い山波が青空を区切る。(ゴッホの麦畑・1)
なんという暗い絵だろう! ゴッホの〈カラスのいる麦畑〉は。
1890年7月、オーベール・シュル・オワーズの黄色い麦畑の丘で51×100cmのいやに横長のカンバスに向かっていた37歳のゴッホの胸のなかにはどんな風景が広がっていたのだろう。(ゴッホの麦畑・2)
同じゴッホが描いた麦畑の絵。しかし、両者は全く違った印象を見る者に与えるのです。それもそのはず、後者はゴッホが死を迎える前、最後に描いた絵だそうです。ここに書かれているように、ゴッホの胸の内は知るよしもありませんが、その後100年以上を経て、小麦粉は変わらず私たちの日々の食卓を彩ってくれています。
ちなみに、本書によると日本では、パン、パスタ、麺といった小麦粉そのものだけではなく、ケーキになり、菓子になり、ねりものになり、揚げもの、やきもの、煮もの素材にまでなっており、ここまで小麦食が幅広く登場するのは世界でも珍しいのだそう。たしかに日本人は外国のものを取り入れ見事にローカライズしてしまいますから、小麦文化は独特の発展をしていると言っても過言ではないのかもしれませんね。そんなことを考えていたら、粉もんが食べたくなってきました。今日はちょうどタコを買ってきたので、たこ焼きでも焼きましょうか。とろりとした生地に負けない、濃いビールが相性いいはず。今夜もどうぞごゆっくり。
【今回紹介した本】
日清製粉株式会社編『小麦粉博物誌』(文化出版局 1985年刊)
人間と小麦とのかかわりあいの歴史はおよそ1万年前にさかのぼる。そんな長い間に綿々と育まれてきた文化を硬軟様々な視点で切り取ったコラム集。どこから読んでも小麦の奥深さがわかる1冊。
文:R