助手席に弟を乗せ東大病院へ車を走らせる。バス通りの桜はもう散りはじめていた。少し開けた窓からはうららかな空気が入ってくる。
「本当にバス停のあたりでいいの?」
「うん」
「入院手続きぐらい一緒にやろうか?」
「いいよ、子供じゃあるまいし」
「だって、荷物もあるじゃない」
「大丈夫だよ」
バス停を超え、邪魔にならないところに車を止める。弟は「さんきゅ」と一言、あっさりとドアを開けた。
「ちょっと!」
「なに?」
「なにかないの?行ってくるよとか、頑張ってくるよ、とか」
「う~ん・・・ない」
いたずらな笑顔を見せ弟は車を降りドアを閉めた。慌てて助手席の窓を開ける。
「頑張るのよ!」
私の声に軽く手を挙げたものの、振り向きもせず。弟の背中は、はらはらと舞う花びらの中に消えていった。ふと見ると、窓から迷い込んだ花びらが1枚、弟がいた助手席にふわりと座っていた。
「脳動脈瘤!?」
「うん、いつ破裂してもおかしくないって」
突然訪ねてきた弟は、そう話した。内科に定期的に通っているのは知っていた。男も三十を超えれば脂肪だの血圧だのと何かしら異常は出てくる。昔から体が大きく太り気味だった弟は、すでに中年太りに差し掛かっている。そのケアで定期的に内科に通っているのだが、たまたま医者の勧めでMRI検査を受けたところ、偶然にも脳の動脈瘤が見つかったという。
「破裂したらどうなるのよ?」
「くも膜下出血」
「大変じゃない!」
「うん、だから早めに手術をしようって話」
「あんたね・・・」
よく言えば、動じない。弟はそういう性分だ。聞かされている私は心臓がバクバクだ。
「4月頭に入院して手術する。姉ちゃん、保証人になって」
入院するには世帯を別にする保証人が2人必要らしい。
「いいけど、もう一人は誰にするのよ?」
「オヤジか母ちゃん」
「話したの?」
「それさ・・・」
「ん?」
「姉ちゃんから話してよ」
「なんでよ!」
「心配かけたくないから」
「こんな時に何言ってるのよ、親でしょ!」
「そうだけどさ・・・」
弟は黙り込み、大きな体を小さくしてうつむいた。いつものパターンだ。私は大きく溜息をついた。
「うんうん、そうなのーよ、私もビックリしちゃってー。まったくもう、ねー」
母に電話したのは、その日の夜だった。父も母も驚いていた。それでも破裂する前に見つかって本当によかった、と。母は涙していた。つられて私も涙がほろほろと零れ落ちた。
「うん、とにかく本人からも母さんに電話するように言っておくから。うん、うん、大丈夫よ、大丈夫。あの子は運だけはいいんだから」
新型コロナウイルスの影響で手術に立ち会うことは禁じられているそうだ。もちろん、面会も禁止されている。このご時世だから仕方がないことだが、「大きな手術なんだろう?付き添いもダメなのかい?」、離れて暮らしている母は、そう何度も繰り返していた。
母には言えなかった。開頭手術になる、と。弟の脳に見つかった動脈瘤は頭の上部にあり、カテーテルでは難しい場所のため、頭を開けての手術になるそうだ。退院にはしばらく時間がかかるし、当然痛みも続くだろう。そして、頭にはそれなりの傷跡が残る。そんなことは、いまの母には言えなかった。
「じゃ、代筆して印鑑押しておくね。うん、また電話するから。大丈夫、大丈夫だから」
私は努めて明るく話した。そうするのが精一杯だった。
「はい、書類。旦那にも許可はもらってるから」
入院一週間前、弟は書類を受け取りに来た。
「それと手術の同意書。これも父さんに許可をもらって代筆しておいたから」
「さんきゅ」
「ちょっと、電話したの?」
「・・・」
「やっぱり。あんた、五体満足に生んでくれた親に何にも言わないで、勝手に頭開けるつもり?」
「そういうわけじゃないけどさ」
「わかったわよ、あんたがそうなら考えがある」
私はすぐに横に置いてあった携帯電話を手に取り、実家に電話をした。
「あっ、もしもし母さん、私、いま電話代わるから」
有無を言わせず、携帯電話を弟に押し付けた。弟は困惑したような顔をしていたが、あきらめて携帯電話を握った。
「もしもし・・・」
そこから母が一気に話しかけたのだろう。母の声が怒涛の勢いで漏れ聞こえてくる。弟は時折うなづくだけで黙って聞いていた。そして、しばらく経つと、弟の目からぽろぽろと雫が落ちた。それを察したのか、漏れていた母の声も聞こえなくなった。しばしの沈黙の後、弟はポツリポツリと話し始めた。
「・・・母ちゃん、俺、頭の骨、開けるんだよ、頭蓋骨をドリルで開けるんだよ、それで頭の中に器具を入れて動脈瘤をやっつけてくれるんだってさ。医療ってのはすげぇんだよなー、それで俺の命を救ってくれるんだから。そうしないと、俺、死んじゃうかもしれないんだって。もちろんそんなことは分かってるよ、手術も一日でも早くってさ。でもさ、でも母ちゃん・・・やっぱ俺、怖ぇよ、頭の皮膚めくってさ、頭蓋骨くり抜いて、なんて。手術終わって全身麻酔が切れたら痛てぇんだろうなー、って。痛くて眠れねぇんだろうなー、頭にフランケンシュタインみたいな傷跡が残っちゃってさ、知らない人が見たら気味悪いだろうなー、って。友だちも気味悪がって離れていっちゃうやつもいるかもなー、とか、そんな傷跡があって仕事なんかできるのかなー、って。そもそも社会復帰なんてできねえんじゃねえか、とか、俺、仕事なくなったらどうしよう、とかさ。なんか、そんなことばっか考えちゃうんだよ。・・・バカだよなー、俺、命助けてもらいに行くのにさ。ホント、バカだよなー。なぁ、母ちゃん、医者ってのはすげぇんだよな、だから任せるしかねぇんだよな。でもさ、でもさ、やっぱ怖えもんは怖えよ、母ちゃん。ごめんな、こんなバカな息子で。ホント、心配かけて、ごめん。でも俺、俺・・・」
母親というのは偉大だ。こんなにも子供を素直にさせる。よく言えば、動じない。弟はそういう性分だ。そんな弟の中に、こんなにも切なくて素直な恐れがあったんだ。
ごめんね、気付いてあげられなくて。ごめんね、バカな姉ちゃんで。ホントごめんね、一緒に泣いてあげることしかできなくて。
プップー。
「あっ、すいません!」
後ろの車に急かされ、慌てて車を走らせる。東大病院のバス通りの桜は、今年ももう満開を過ぎていた。あれから一年。もう、助手席に弟を乗せて車を走らすこともなくなった。
この道は、あの時となにも変わっていない。バス通りの桜も、あの時となにも変わっていない。でも、私の目に映る花びらは、あの時とほんの少し違っていた。
邪魔にならないところに車を止め、ゆっくりと窓を開ける。その時、はらはらと舞う花びらの中に、振り向いていたずらな笑顔を見せる弟の姿が見えた気がした。
ふっと笑う。どんな感傷に浸ってるんだ、私。
気を取り直し、再び車を走らせる。少し開けた窓からはうららかな空気が入ってくる。ふと見ると、助手席には窓から迷い込んだ花びらが1枚、あの時と同じようにふわりと座っていた。
文:けいたろう