いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日はミステリーをこよなく愛する私Kが店番です。

今年の夏は大変な暑さで当店でもビールがいつも以上に人気でしたが、涼しくなってくるとなぜか琥珀色のお酒が恋しくなりますよね。おすすめのバーボンがあるんですが、いかがですか?

葉巻とバーボン

え? バーでウイスキーと言えば、トレンチコートを着た探偵というイメージ? ハードボイルド小説がお好きなんですか。そうですね、確かにハードボイルド小説の金字塔『長いお別れ』の主人公フィリップ・マーロウの家にあったのはオールドグランダッドというバーボン。映画化されて日本でも有名になったマイク・ハマーシリーズの探偵もフォア・ローゼズを愛飲していましたっけ。

でも、有名な文学賞である直木賞を受賞したほど有名なのに、主人公がウイスキーどころかアルコールを飲むシーンが1度も登場しないハードボイルド小説があるのをご存じですか?

それは原尞(はらりょう)という作家のデビュー作『そして夜は甦る』からはじまる沢崎シリーズという小説。探偵・沢崎を主人公にしたこのシリーズは2作目の『私が殺した少女』で直木賞を受賞した傑作です。ところが大人気のシリーズにも関わらず、1995年に第一作が刊行されてから今までにたった5冊しか出版されていません。しかも原さんはこのシリーズ以外の小説を書いていないんですよ。

あまりに寡作すぎて、サイン会で「どうか自分が生きている間に続刊を書いてください」とお願いしたファンもいたんだとか。

『そして夜は甦る』原尞

話が脱線しましたが、日本を代表するこのハードボイルド小説の主人公・沢崎は、ある理由から禁酒をしているんです。だから沢崎は酒場でもコーヒーを飲んでいる。

その代わり、沢崎は頻繁にタバコを吸います。なんと、『そして夜は甦る』だけでも、作中に139回も「タバコ」という単語が出てきました。数えたのかって? ええ、あまりに気になったので数えたことがあるんですよ。自分でもよく数えたと思いますが、それくらいタバコのシーンが印象的な作品です。

実は私、作者の原尞さんに仕事で1度だけお会いしたことがあります。1時間半くらいの短い間でしたが、彼はその時ずっとタバコを吸っていらっしゃいました。あれこそチェーンスモーカーというんでしょうね。その姿が妙にさまになっていて、原さんの存在自身がハードボイルドという感じでした。

「沢崎はずいぶんタバコを吸いますよね?」とお聞きしたら「え? そうですか?」と意外そうな顔をされて「意識したことはない」とおっしゃっていました。おそらくご自身が愛煙家なので、無意識に沢崎にタバコを吸わせてしまうんでしょうね。そして、原さんは下戸なんだそう。それを知ったら、沢崎と原さんの姿がますます重なって見えました。原さんのように作家本人の趣味や嗜好が作品に現れることって多いんですよ。好きな小説をそういう視点から読み直してみると、また新たな発見があるから読書はやめられませんね。

たとえば料理の描写が上手な作家が健啖家であるということもあります。そうそうジャズ喫茶を営んでいたあの有名な作家の作品にもよくジャズの話が出てきますしね。私が好きなある作家の小説では、やけに建物の間取りが詳細に書かれているんですが、彼は建築家と対談をした建築関係の本でコラムを執筆したりしています。きっと建築好きなんでしょうね。その作家は誰かって? それはまた別の機会にお話ししましょう。

お話が長くなりましたが、まずは一杯バーボンをご用意しますね。飲み方はハードボイルド風にロック? それともバーボン1、水1で割ったトワイスアップにしますか? これはバーボンの香りが楽しめるおすすめの飲み方なんですよ。静かなバーでの最初の静かな一杯。こんなすばらしい一杯はありませんね。いいことを言うって? これはチャンドラーの受け売りです。

【今回紹介した本】
『そして夜は甦る』原尞(早川書房)
探偵・沢崎の小気味よい会話がたまらない、日本を代表するハードボイルド小説。緊張感あふれるストーリー展開は、世界の黒澤明のチームで映画関係の仕事をしていたという原氏の経歴によるものか? ハードボイルド初心者にもおすすめの1冊

文:K