いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日は、かつて建築家を志したことがあるKが店番です。

ちょっと前の話になりますが、トンガで海底火山が噴火しましたが、その後どうなっているんですかね。メディアは次々と新しいことを報道するので、あんなに大きなニュースもあっという間に過去のことになってしまうのは仕方の無いことなんですかね。
あの時「火山」と聞いて思いだした本があるんです。その名も『火山のふもとで』という小説で、松家仁之さんという作家のデビュー作です。10年前に1900円もした無名の新人の単行本を、なぜ買ったのかというと、あらすじに私が尊敬してやまない建築家「フランク・ロイド・ライト」の名前を見つけたから。

本の袖にはこんな文章が書かれていました。ちょっと長いですがご紹介しますね。

「夏の家」では、先生がいちばんの早起きだった。
――物語は、1982年、およそ10年ぶりに噴火した浅間山のふもとの山荘で始まる。「ぼく」が入所した村井設計事務所は、夏になると、軽井沢の別荘地に事務所機能を移転するのが慣わしだった。
 所長は、大戦前のアメリカでフランク・ロイド・ライトに師事し、時代に左右されない質実で美しい建物を生みだしつづけてきた寡黙な老建築家。
 秋に控えた「国立現代図書館」設計コンペに向けて、所員たちの仕事は佳境を迎え、その一方、先生の姪と「ぼく」とのひそやかな恋が、ただいちどの夏に刻まれてゆく――。

(『火山のふもとで』松家仁之/新潮社 より)

この本の魅力はなんといっても、ディテールの細かさ。風景はもちろん、インテリアや登場する車、主人公である「ぼく」、先生とその姪の麻里子、それぞれが食べるもの、持ち物などが事細かに描写されています。これを下手な書き手がやってしまうと「そんなことはどうでもいい」と感じてしまうんですが、この作品はそうした細かい描写がすべて作品の血となり肉となっているんです。

たとえば事務所の描写は、

「夏の家」に持ち込む備品も補充しなければならない。スタディ模型用のスチレンボード。製図用鉛筆のステッドラー・ルモグラフ。ユニの消しゴム。

(『火山のふもとで』松家仁之/新潮社 より)

ステッドラーとはドイツの文具メーカーで、ルモグラフとはこのメーカーの製図用高級鉛筆のこと。使いやすさはもちろんのこと、青と黒のシンプルなビジュアルが素敵なんです。単純に「製図用鉛筆と消しゴム」と描けばいいところを、あえてブランド名を書くことで、村井設計事務所の所員たちのこだわりのようなものが見えてきます。彼らを「おしゃれ」「服のセンスがいい」「こだわりが強い」などと書くよりも、こうしたディテールを積み重ねるほうが、行間から、登場人物たちの好みや性格、ビジュアルまでも浮かび上がってきて、かなり高度なテクニックだと思います。

さらに鉛筆に関してはこんな描写も。

短くなった鉛筆にリラのホルダーがストックされており、長さが二センチを切ると、梅酒用の大きなガラス瓶に入れられて余生を送る。瓶がいっぱいになると夏の家に運ばれる。何に使われるわけでもないが、暖炉脇には鉛筆がぎっしりつまった七つものガラス瓶が並んでいた。

(『火山のふもとで』松家仁之/新潮社 より)

先に鉛筆のブランド名を記していることで、この場面では短くなった青い鉛筆がびっしりと瓶につまっている情景が自然に目に浮かんできますよね。そして時を経て、十数年ぶりに夏の家を訪れた主人公と同僚だった女性の会話。

「この瓶のこと、すっかり忘れてたな」
「あなたの鉛筆も、わたしの鉛筆も、この中に入ってる」

(『火山のふもとで』松家仁之/新潮社 より)

鉛筆は直接ストーリーには何の関係もありませんが、登場人物たちのこだわりや美意識、時間の流れ方といった作品の世界観をつくるのに重要な役割を果たしていると思うんです。鉛筆以外にも、このような伏線のようなものがさりげなくちりばめられていて、物語に奥行きを与えています。
こうして私はフランク・ロイド・ライトをきっかけに知った松家仁之さんの作品にすっかりはまり、それから彼の作品はもちろん、彼の書庫訪問の記録を掲載した『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(松原隆一郎・堀部安嗣 著)という建築関係の本を読み、さらにこの本に触発されて『堀部安嗣の建築』という本にはまるという、読書の連鎖にはまったのです。もちろん、どれも素晴らしい本でした。本は開くだけで、いろんな世界を見ることができる魔法のようなもの。小説しか読まない、あるいはノンフィクションしか読まないという人は、そんなことを言わずにぜひ、興味のある単語や作家を手がかりに、ジャンルを超えて新しい本と出会ってほしいものです。
ちなみにミーハーな私が、この出会いによって本だけでなくステッドラー・ルモグラフを買ったのは言うまでもありません。

そうそう、この本で唯一残念なのが、主人公の「ぼく」がアルコールが得意ではなかったということ。ただ、人が酒を飲んで楽しそうにしているのは好きだ、と言っているので良かったです。村井設計事務所の内田さんは呆れるほどの読書家で、読書のおともはワインだそうなので、それにならって今夜は濃いめの赤といきますか?

【今回紹介した本】
『火山のふもとで』松家仁之(新潮社)

新潮社の編集者として、海外文学シリーズ「新潮クレスト・ブックス」、季刊総合誌『考える人』などを創刊し、「芸術新潮」編集長も務めた著者のデビュー作(実は学生時代に『夜の樹』という作品で文學界新人賞佳作に選ばれているため、再デビュー作とも言われている)。デビュー作にして高い評価を得ると同時に、一部ではユートピア小説などと揶揄するような批評もあったが、第64回読売文学賞受賞を受賞。文庫版もあり。

文:K