その初老の男性に気付いたのは、
アルバイトを始めて半年ほど経った頃だった。
この関口フランスパンにはカフェも併設されていて、
その男性は週に一度はモーニングを食べに来ていた。
そして、必ずフランスパンを1本買って店を後にした。
とりたてて、おかしなお客さんではなかった。
どちらかというと品のある、
それこそフランスパンの似合うような
ハイカラな雰囲気を纏う素敵な男性だった。
ただ、ひとつ違うのは、
コーヒーをもう一杯、別に頼むこと。
モーニングのトーストセットにはコーヒーが付いているのだけど、
その男性は必ずセットとは別に、もう一杯コーヒーを頼んだ。
しかも、それには一切口を付けなかった。
その日も男性は、おいしそうにトーストを頬ばり、
ゆっくりとコーヒーを楽しみ、静かに席を立つと、
フランスパン1本を買って店を後にした。
「あ、私、片付けます」
そういって男性が座っていたテーブルにいくと、
トーストもバターもジャムもコーヒーも
きれいに食しているにも関わらず、
別に頼んだコーヒーは、手付かずのままだった。

その男性は、次の週もモーニングの時間にやってきた。
いつものようにトーストセットとコーヒーを一杯。
常連であるかのようなふるまいはなく、
ただ静かにモーニングを楽しんでいる様子だった。
その日は偶然、私がレジにいるときに男性が席を立った。
これはチャンスだった。
「あの・・・」
「なにか?」
男性は驚いた様子だったが、すぐに穏やかな表情をみせた。
「あの、いつもコーヒーを一杯、別に頼まれてますよね?」
「ああ、すみません。いつも残してしまって・・・」
「あっ、いえ、そうことではないんです。あの・・・」
「ごちそうさまでした」
男性は、穏やかな言いぶりながらも、きっぱりと話を切り上げた。
そして、いつものようにフランスパンを1本抱えて店を後にした。
そのとき、なぜか聞いてはいけないようなことを聞いた気がした。

次の週、男性の顔を見ることはなかった。
私とて、毎朝入っているわけではない。
偶然に男性が来た日にいなかったということもある。
だけどなんだろう、この後ろめたい気持ちは。
なにか、あの男性の大切なもの、
大切な時間を奪ってしまったような、そんな気がした。

そんな気持ちのまま迎えた、次の週。
「来た・・・」
その男性は、モーニングにやってきた。
先々週の私とのことはまったく気にも留めていないように
いつも通りの穏やかな空気を纏っていた。
「あっ、私、持っていきます」
トレイに乗せたトーストセットと、別注文のコーヒー1杯。
男性に近づくたび、僅かにカップがかたかたと鳴った。
「お待たせしました」
「ありがとう」
サーブを終え、思い切って話しかけた。
「あの、先日はすいませんでした」
男性はゆっくりと顔を上げ、私の顔をしげしげと見つめた。
「ああ、あのときのお嬢さんですか」
「はい、先日は余計なことをお尋ねしてすいませんでした」
「いえいえ、お気になさらずに」
穏やかな笑顔のまま、
慣れた手つきでバターのシールをゆっくりと剥がす。
「トーストももちろんなんですが、
 ここのバターとジャムは、とても美味しいですね」
「あっ、ありがとうございます」
男性はトーストにゆっくりとバターを塗り始めた。
「そうですよね、気になりますよね。そのコーヒー」
「あっ、いえ・・・」
バターを塗り終わり、ジャムに手をかけながら言った。
「妻のなんです」
「えっ・・・」
「そのコーヒー、妻の分なんです」
そういうと男性は、優しい眼差しでコーヒーの湯気を見つめた。
「妻は、ここのトーストとコーヒーが大の好物でしてね。
 それと、こちらのフランスパン。
 朝、こちらでトーストとコーヒーをいただいて、
 フランスパンを買って帰る。
 それがなによりの楽しみだと言っていました。
 その妻の笑顔を思い出したくてね、ついついここに来てしまうんです。
 ご迷惑でしょうが・・・」
「いえ、そんなこと・・・」

思い出したくて、ということは、
もうその笑顔は見ることができない、ということなんだろう。
奥様は亡くなられたんだ。
そう気付いた瞬間、私は黙って頭を下げて、その場を離れた。

私、なに余計なことを聞いてるんだろう。
私いま、人の思い出に土足で踏み込んだんだ。
最低・・・。そして、ごめんなさい。
いたたまれない気持ちで、涙が滲んだ。

そんな私の鼻先を香ばしさがくすぐった。
フランスパンの焼き上がりの香りだった。

その時の衝動を、いま思い返しても説明できない。
それでも私は焼きたてのフランスパンの元に走らずにはいられなかった。
「すいません、バイト中だけど、私、1本買っていいですか?」
呆気にとられる職場の皆さんをよそ目に、
フランスパンを握りしめてキッチンに急いだ。
「あの、これ、カットして軽くトーストしてもらえませんか?
 1切れか2切れ。あと、コーヒーを1杯!」

そして、小さな器に並べたフランスパンを2切れ、
コーヒー1杯をトレイに乗せて男性の席へ向かった。
「失礼します」
驚いた様子の男性を横目に、コーヒーを温かいものに差し替え、
男性の向いの席にフランスパンの器と一緒に並べた。
「どうぞ、きょうは奥様とご一緒にお楽しみください」
男性は驚いたまま、目線をゆっくりと向かいの席に移した。
私は男性の顔をじっと見つめていた。
また穏やかに、だけどきっぱりと拒否される。そう思った。
すると男性は、まるでそこに奥様がいるかのように
優しく、温かく、微笑んだ。
「なあ、お前、お嬢さんが素敵なプレゼントをしてくれたよ。
 またこうやって、お前と一緒にモーニングが楽しめるなんて
 夢にも思わなかったよ。ありがたいことだな。
 お前の好物のフランスパンだよ、そして温かいコーヒーだよ」
男性の声は、どこか涙を帯びていているかのように聞こえた。
男性は顔を上げ、私の顔を見て言った。
「ありがとう」
もうこれ以上、お二人のお邪魔をしてはいけないのは分かっていた。
私はただ黙って頭を下げ、その場を離れた。

その後、マネージャーに怒られたのは言うまでもない。
しかし、どこか清々しい気持ちでアルバイトを終えた。
奥様に差し上げた残りのフランスパンは、私がきちんと持ち帰った。
軽くトーストしたフランスパン、そしてチーズとワイン。
それをつまみに、今夜は彼に素敵なお二人の話をしようと思う。
私たちもいつか、あのお二人のような素敵な夫婦になれることを祈って。

 

文:けいたろう