BB坂ノ途中 変態読書のススメ

第28回 気が遠くなるほどの偏愛

いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日は調べ物が趣味のKが店番です。

つい最近まで「熱中症に注意を」なんて言っていたのに、気づけば10月。今年もあと3ヶ月で終わりです。10月と言えば、16日は「辞書の日」だって知っていましたか? アメリカの有名な辞書編纂者の誕生日だからだとか。日本で辞書や辞典といえば、三省堂の国語辞典が有名ですが、今年の12月に8年ぶりに改訂されるそうです。去年第三版が出た『明鏡国語辞典』も9年ぶりの改訂だったと言います。辞書の編纂者は次の改訂版が出るまでの間、何万もの言葉の中から使われなくなった言葉を整理し、新しく追加すべき言葉を調べてその説明文を考えるそうですから、気の遠くなるような話ですね。

とにかく、辞書を作るには長い時間と根気、そしてノウハウが必要なので辞書を作る出版社というのは限られているものなんです。国語辞典といえば三省堂や小学館、『広辞苑』を出している岩波書店、『大漢和辞典』や『明鏡国語辞典』などを出版している大修館書店などが有名でしょうか。普段、小説やビジネス書、週刊誌を作っている出版社が、いきなり辞書を作ろうと思っても無理な話なんですよ。

ところがです、その無理をやってしまった出版社があるんですねえ。週刊誌や文庫本でおなじみの新潮社。創立110周年を記念して2007年に『新潮日本語漢字辞典』を出版しました。

新潮社ではそれまで、中国歴史文化事典などは出版したことがありましたが、日本語の辞書や辞典を出したことはなかったそうです。しかし、同社の校閲部にいたK氏が、小学生の頃からの漢字好きが高じて漢字辞典の出版を企画。その熱意によって11年もの歳月をかけてこの辞典の出版にこぎ着けたそうです。校閲部と言えば、石原さとみさん主演のドラマ「校閲ガール」で有名になりましたが、文書や原稿などの誤りや不備を調べ、訂正したり校正したりする部署ですから、編集とは全く関係のない仕事。そんな社員が辞典を作ってしまうなんて、おそるべき執念。

しかもこの辞典は、「日本で初めての、『日本語としての漢字』を引くための辞典」でもあります。どういうことかというと……。

これまでの漢和辞典は、古代中国語である「漢文」を読むために作られてきた。『新潮日本語漢字辞典』は、日本語の文章を読み書きするための、初めての本格的な「漢字辞典」としてつくられた。

(『新潮日本語漢字辞典』より)

漢字は中国から伝来したものというのは常識ですが、そこから日本独特の読み方が生まれ、漢字を使ったオリジナルの単語もたくさん生まれました。たとえば「浴衣(ゆかた)」「蒲鉾(かまぼこ)」「秋刀魚(さんま)」などです。

通常の漢字辞典には、その漢字の意味や成り立ちしか書かれていませんが、『新潮日本語漢字辞典』には、その漢字を使った熟語が載っています。たとえば、「秋」という漢字には「秋雨」「秋桜」「秋刀魚」など、季節を反映した日本独特の味わい深い熟語が紹介されています。しかも、その熟語が使われている過去の名文も一緒に掲載されているんです。たとえば……。

【秋波】美人の美しい目元。また、流し目。「秋波を送る」「黒縮緬へ三つ柏の紋をつけた意気な芸者がすれ違ふときに、高柳君の方に一瞥の秋波を送った[野分]」

(『新潮日本語漢字辞典』より)

この[野分]とは夏目漱石の小説のことですが、こうした例文がたくさん掲載されているわけです。これだけの数の例文を探すだけでも、途方もない時間がかかっているはずですから、おそるべき執念というか変態というか……。

子供の頃、我が家の食卓にはいつも『広辞苑』がありました。「●●って何?」と聞くと、父が「自分で調べなさい」と言ったからです。父は食事のマナーにはとてもうるさい人でしたが、『広辞苑』だけは食事中でも開いていいルールだったんです。おかげで当時の私は同級生よりもたくさんの言葉を知っていた気がします。その体験が今の仕事にも活かされているかもしれませんね。

秋の夜長、パラパラとこの辞書をめくりながら、美しい日本語、ユーモアのある日本語ならではの単語などに触れてみるのもオツなものです。そうそう、ちょうど日本酒のアテにいい蒲鉾があるんです。召し上がる前に、この辞典で蒲鉾という単語を調べてみませんか?

【今回紹介した本】
『新潮日本語漢字辞典』(新潮社)

新潮社の創立110周年を記念して出版された漢字辞典。「日本語の漢字」を引くための辞書であり、近代文学や現代文学から用例を多数引用していることも未だかつてない試み。日本語の面白さ、楽しさに触れながら漢字を学ぶことができる良書。

文:K