いらっしゃいませ。

ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。

ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。今夜は食事の悩みなら大歓迎のRが店番です。

あっと言う間に4月です。って、時が過ぎることの速さを話題にすると、次に続くのはどうにもネガティブな感想になってしまいがちで嫌ですね。たとえば、お正月にこれをしよう! と決意したのに三日坊主になってしまった……なんていう人は、新年度の始まりはまた気持ちをあらためて再挑戦のチャンス。そう考えれば4月はそう悪くないタイミングなのかもしれません。

そんなことを考えたのは、『天才たちの日課 女性編』(メイソン・カリー著、金原端人/石田文子訳 フィルムアート社)という本を読んだからなんです。これは、アメリカの編集者でありライターである著者が、いわゆる天才たちの偉業ではなく、彼らの普通の日常、日課としておこなっていることについて調べまとめた1冊。服飾デザイナーのココ・シャネルや、あの作曲家シューマンの妻であり自らも作曲家・ピアニストとして活躍したクララ・シューマンなど今は亡き天才から、日本の誇る芸術家・草間彌生など、全143人の天才女性の日常の何気ない一コマをコンパクトにまとめています。

スタッフの大半は朝八時半ごろ出勤するが、ココは早起きが苦手で、それより数時間遅れて姿を現すのが常だった。(中略)カンボン通りのシャネル本店向かいにあるオテル・リッツのスイートルームで暮らしていたが、彼女がその部屋を出た瞬間、ホテルのスタッフが本店のオペレーターに電話をして警戒を呼びかける。店内にブザーが鳴りひびいて、マドモアゼルが間もなく到着します、と伝えられる。一階にいる誰かが、玄関付近にシャネルの五番をスプレーする。ココが到着したとき、自分のブランドを代表する香りに包まれて入ってこられるように。

メイソン・カリー著/金原端人、石田文子訳『天才たちの日課 女性編』(フィルムアート社)より

これが、今も女性たちを魅了して止まないファッションの神様、ココ・シャネルが朝、オフィスに入る様子です。この後、やってきた彼女を直立不動で迎えるオフィスの人々の様子も描かれるわけなのですが、なんだか驚いてしまいますよね。その後、ココ・シャネルは、ほぼ九時間飲まず食わず立ちっぱなしで(ひっきりなしにタバコは吸っていたようですが)、仕事に没頭していたのだとか。

(ドロシー・トンプソンは)ベッドの中で手書きでコラムを書いた。彼女はほとんど毎日昼過ぎまでベッドのなかにいて、新聞を読んだり、友人に電話をしたり、手紙の返事を書いたり、ブラックコーヒーを飲んだり、キャメルを次々と吸ったりした。秘書のひとりがいつもそばに控えて、彼女の口述を書き取る用意をしていたが(中略)筆記用紙やパーカーの万年筆やL・C・スミスのタイプライターなどが家の中のあちこちに置いてあった。いつ、なにに「興味が湧いて」、それを書きとめなくてはならないかわからないからだ。

メイソン・カリー著/金原端人、石田文子訳『天才たちの日課 女性編』(フィルムアート社)より

これは、1893年生まれのアメリカのジャーナリスト、ドロシー・トンプソンの日常。1920年にヨーロッパに渡ってジャーナリストとして活躍。ヒットラーをインタビューして彼は危険だと警鐘を鳴らしたためドイツを追放され、アメリカに戻って「オン・ザ・レコード」というニュースコラムを連載。その数はたとえば1938年には年間132本。その他に長い雑誌記事を10本、50回以上の講演を行い、数え切れないほどラジオに出演し、本も1冊書いたようです。この本を読んで、初めてこんな女性がいたんだということを知りました。このような日々を過ごす中から生まれるニュースコラムはどんなものなのか。「自分を突き動かす活力のもとはフラストレーションだ」と語ってもいたようなので、読むのは覚悟が必要かも知れませんね。

朝は六時に起きる。いつもコットンの服を着ているが、それはそのまま寝ることもできるし、仕事もできるからだ――わたしは時間を無駄にしたくない。(中略)ときには二、三日寝ないで、ぶっとおしで仕事をすることもあった。食事はまったくどうでもよかった。(中略)イワシの缶詰と紅茶と古いパンがあればもう十分だったからだ。もともと食べ物にはあまりこだわりがなく、いつも代わりばえのしないものを食べている。以前に本で、デンマークの作家のイサク・ディネーセンは歳を取ってから食事に牡蠣とシャンパンしかとらなかったというのを読んで、つまらないことに悩まないですむ素晴らしい方法だと思った。

メイソン・カリー著/金原端人、石田文子訳『天才たちの日課 女性編』(フィルムアート社)より

食事についてこう語ったのは、ウクライナ出身のアメリカ人彫刻家、ルイーズ・ネヴェルソン。日用品の廃物などを切り刻んで黒く塗り、黒い箱の中に入れたコンセプチュアルアートを一貫して製作したことから「黒の女王」とも呼ばれた人物。人生は決して順風満帆ではなく、最初の個展を開けたのは42歳、広く名が知られるようになったのは60歳と言いますから、食事のことなんて考えていられないというのも頷けます。偉業を成し遂げるためには、ここまでしなければいけない、自分にはとても…なんてことを言いたいんじゃなくて、どんな天才にも私たちと変わらないような日常があって、妥協して後悔したり、覚悟を決めたり、邪魔するものに抵抗したりしながら生きているんだなということ。この本で紹介されている143人は、知らない人も多いですが、彼女たちの日常を知るとなんだか親しみも湧いてくるし、新年度の始まりにあたって背中を押されるような気もします。というわけで、今夜はまずシャンパンと牡蠣…といきたいのですが、生牡蠣は季節外れなのでオイル漬けで、またシャンパンは最近増えているお手頃缶ワインで。これはポルトガル産に多いヴィーニョ・ベルデという微発砲ワイン。今夜もどうぞごゆっくり。

【今回紹介した本】
メイソン・カリー著、金原端人/石田文子訳『天才たちの日課 女性編』(フィルムアート社、2019年)

草間彌生、ピナ・バウシュ、フリーダ・カーロなど創作に自らの人生をささげた古今東西の女性たち、総勢143人の試行錯誤の日常を紹介する。どんなことにも決して負けない、自由と勇気と戦いの日々。

文:R