いらっしゃいませ。

ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。

ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。今夜はパスタならオイルかトマト系が好きなRが店番です。

何だか最近、言葉というものに関して考えることが多くなっています。仕事柄、言葉は正しく使いたい、持てる語彙は常にアップデートしておきたいと思っているのですが、IT用語というのは困りますね。技術の進化とともにどんどん新語が生まれるし、ボーッとしていると、あっと言う間に時代に取り残されてしまいそうです。

メタバース、IoB、TXなどなど、ここへきて仮想空間やサイバー空間で人間が活動することがより現実味を帯びてきました。私は、子ども時代にはパソコンなど想像もできなかった世代ですから、仮想空間なんて、思考はともかく身体が追いつきません。そこに自分の“なりすまし”が現れて、勝手にやりたい放題されたらどうしたらいいの? なんて考えてしまいます。

“なりすまし”と言えば本の世界にも“なりすまし”がありますね。古くは紀貫之の土佐日記(古すぎるか?)。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」(男も書く日記というものを女の私も書いてみる)という有名な書き出し。男(著者・紀貫之)が女に“なりすまし”て日記を書いてみたよというわけです。

聞けばこのところニッポンではイタリア料理がブームなんだそうである。(中略)アオヤマ、ギンザ、ニシアザブ、アカサカ、ロッポンギ、イケブクロ……。ニッポンに来て以来、多忙と和食研究と毎週のテニスとでスリムになりかけていた私は瞬く間にひところの腹部を取り戻し、ひきかえにプラーダの財布だけが軽くなった。というのも、どの店でもやたらに値がはるうえに私は、アンティパストを二皿、パスタを一皿、そして魚と肉を両方食べ、もちろんエスプレッソに移る前にドルチェを必ず賞味していたわけである。つまり、決定的に全般的に宿命的に量が少ないのである。

フェデリコ・カルパッチョ著/訳と註 木暮修『フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱』(幻冬舎)より

1980年後半のバブルを思わせる、今となっては少々時代がかった書き出しのこのエッセイを書いたのはフェデリコ・カルパッチョ氏とありますが、これも読んだ人ならおよそ想像がつくでしょう。実は訳と註を担当した木暮修氏が謎のトスカーナ人、フェデリコ・カルパッチョ氏に“なりすまし”、彼の視点を通して「異国の町トウキョウ」の食や酒について綴ったもの。私は木暮氏の人となりを存じ上げないので、木暮氏とカルパッチョ氏との間に、どれくらいの違いがあるのかは分かりませんが、実に自在に自由に楽しく書きたいことを記しているように思えるのです。

そんな話をアオヤマにある店でカオリとしていたら、それでも大した進歩なのだということがわかった。この国では十数年前までは、スパゲッティが二種類しかなかったというのだ。その名はミートソースとナポリタン。前者はつまりボローニャ風の、後者はナポリ風のトマトソースを原型にしていたらしい。けれどもそのトマトはサン・マルツァーノでもロマーノでもなく、カゴメという日本産のトマトからつくられるケチャップだったのである。

フェデリコ・カルパッチョ著/訳と註 木暮修『フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱』(幻冬舎)より

スパゲッティ・ミートソースとナポリタン。スパゲッティの種類が二種類どころか、二十種類ぐらい思い浮かぶ現代でも、このふたつは誰もが好きなメニューですよね。「カゴメという日本産のトマトからつくられるケチャップ」というくだりにカルパッチョ氏の驚きの表情が目に浮かぶようです。そして、それを訳す木暮氏の“してやったり”風の笑顔も(あくまでも私の想像ですが)。ちなみに、上記「ケチャップだったのである」のあとには訳者・木暮氏の訳注が入っています。

フェデリコの聞き違いか、カオリの説明不足による誤解であろう。ちなみにかつての日本では、カレー味のスパゲッティ・インディアンという料理も一部で見られた記憶がある。

フェデリコ・カルパッチョ著/訳と註 木暮修『フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱』(幻冬舎)より

もしかしたら“なりすまし”は、このように書く人を自由に開放するものなのかも知れませんね。カルパッチョ氏は、連れの女性(相手はほぼ毎回違うのです)とトウキョウ(時には地方にも遠征)のあらゆる食と酒を楽しみ、好き勝手に語ります。時に言い過ぎではないかということもありますが、それは訳注でフォロー。そんな数多い訳注も合わせて楽しめる本です。ミートソースやナポリタンのことを考えていたら(スパゲッティ・インディアンは知りませんでしたが)、トマト系のパスタが食べたくなりました。冷えた白ワインに合わせていかがですか? 今夜もどうぞごゆっくり。

【今回紹介した本】
フェデリコ・カルパッチョ著/訳と註 木暮修『フェデリコ・カルパッチョの極上の憂鬱』(幻冬舎、1994年)

謎のトスカーナ人フェデリコ・カルパッチョが異国の町トウキョウを数多のガールフレンドと共に歩き、食、酒、文化を通じて縦横無尽に描く。正体不明の外国人による日本人論としても読める1冊。

文:R