目白通りから右折して不忍通りへ入る。いつもは右レーンだが、きょうは左レーンへ。平日の午後9時過ぎ。不忍通りはまだそこそこに混んでいる。少し走り、交差点の手前、ハザードをつけて邪魔にならないところに車を止めた。
フロントガラスの向うには、首都高の橋脚をよけるように歩道橋があちこち蛇行しているのが見える。その歩道橋の下に隠れるようにあるのが護国寺インターの入り口。いつもはここから首都高に入る。東北方面に行くのにここから入るのは遠回りなのは知っている。ただ、東京の夜景を少しばかり横目に見ながら東北道に向かうのも悪くなかった。

「正月は帰ってくるな」
開口一番、親父はそう言った。このご時世、東北の片田舎の町に“東京もん”が帰省するの難しい。だから今年は帰らない旨を伝えようと電話をしたのだった。
「わかってるよ」
「必要なものがあったら母さんに言え。送るから」
そう言って、親父は一方的に電話を切った。

今年は盆にも仕事の都合で帰らなかった。いや、そうじゃなくても帰れなかったというのが正解だろう。“帰る?”“帰らない?”今年は仕事場でも仲間内でもそんな話をよくした。“じゃあ、いつ帰ることが出来る?”“親の顔、いつ見に行ける?”そんな話もよくした。先の見えない会話はもう沢山だった。
シートベルトを外し、煙草をくゆらす。別にこんなところに車を止めて感傷に浸るつもりはなかった。東北とはいえ所詮国内、車を飛ばせばいつでも帰ることができると思っていた。でも今、フロントガラス越し、数十メートル先にあるはずのインターの入り口がこんなにも遠い。帰りてぇな。ふと頭に浮かんだ言葉を吹き消すように、煙草の煙を大きく吐き出した。
やめよう、こんなこと。
シートベルトを締め直し、エンジンをかけた時、着信音が鳴った。
「元気なの?」
母親の声だった。
「ああ、元気だよ」
「今年は帰ってこないんだって?お父さんに聞いたよ」
「うん。いま、やっぱりね」
先月にも電話で話したはずなのに、なぜか母親の声までが遠く感じる。
「親父は帰ってくるな、ってさ」
「まぁ、そんなこと言ったの」
「あいかわらずだよな」
「お父さんだって会いたいんだよ」
「そうかな」
「そうよ。ただ、ここは狭い町でしょ。もしお父さんやお母さん、それに帰ってきてお前が会った友だちがコロナにでもなったら、全部お前のせいにされる。それを心配してるんだよ」
東北の片田舎の狭い町だ。悪いうわさはあっという間に広まる。これ以上言わせるな、それがあの時の親父の優しさだったのだろうか。俺自身もそれを気にして二の足を踏んでいたのも事実だった。
「でも、お盆も帰ってこなかったからお正月はお前の顔を見られると思ったのにね」
そう言った後、母親がふと口にした。
「お前とあと何回おせちを食べられるんだろうねぇ」
「・・・えっ」
両親が結婚したのは昭和の高度成長期の時代。ただ当時は母親も働いていたこともあって、俺は遅く生まれた子だった。田舎では珍しいかったのだろう。嫁が三十過ぎても子供が授からないことを揶揄する人もいたと聞いた。その両親も、もう八十過ぎ。確かにそれを考えると一緒に新しい年を迎えるのは、あと二十回、いや十回もないかもしれない。でも、でもいま、そんな悲しいこというなよ。
「お前が帰ってきたら、お前と一緒にご飯を食べる。お正月に帰ってきたら、一緒におせちを食べる。それがお母さんの楽しみだったのにね。寂しいね。なんでこんな世の中になっちゃったんだろうね。今年もお前とお父さんと一緒に、おせち食べたかったわ」
気がつけば外は雨が降っていた。いや違う、フロントガラスは濡れていない。そうか、涙が溢れてるだけだ。
「おせちとかかまぼことか、そっちで買えるの?お餅はある?おいしいお餅をもらったから送ってあげようか?」
もう言葉が出なかった。ただただ、だまってうなずくしかなかった。
「そっちも寒いから風邪ひかないようにね。コロナにも気をつけるのよ」
「・・・うん。母さんも」
声を殺して電話を切った。涙で霞むフロントガラス越し、数十メートル先にあるはずのインターの入り口がこんなにも遠い。帰りてぇ。帰りてぇなぁ。誰にも届かない声が車の中に響いた。

エンジンをかけ右レーンに車線変更する。不忍通りにはもうほとんど車は走っていない。そして、いつも入るはずのインターを横目に家路へと向かう。そうだ、来年の初詣は護国寺にしよう。このインターに近い場所、ふるさとへの入り口に一番近い場所で。そして願おう、来年はこのインターからふるさとへ帰れますように、と。

文:けいたろう