BB坂ノ途中 変態読書のススメ

第33回 江戸の人々は現代人よりずっと賢く幸せだった……かも

いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。今夜は大人になってから歴史が好きになったRが店番です。

学生時代、あまり好きじゃなかった教科は歴史でした。年号とか武将の名前とか、とにかく暗記しなければいけないことが多すぎるように思えて。それに、受験などがからむと、ものすごいスピードで先生が解説するだけで終わりとか…。でも、最近は結構面白いものだなと思うようになったんですよね。歴史を紐解いてみると、先人の暮らしには、さまざまな知恵が巡らされていて、文明の発達した今が、必ずしも昔より暮らしやすいとは限らないような気がするんです。

物の本に、
「江戸時代の深川は、イタリアのベニスに比較してもよいほどの水郷であった」
などと書かれている。現代の人たちにはとても信じられないだろうけどね。そういう人は、たとえば安藤広重の〔名所・江戸百景〕の中の、深川を描いた浮世絵を見るといいんだよ。広重の絵筆が表現した江戸の街というのは本物なんだ。戦前の深川を知っている人なら、それが実感としてわかる。
江戸湾、つまり東京湾の汐の香り、すっきりとした住民の気風。深川の街を縦横にめぐる堀川と運河の水の匂い……そうしたものがある程度、広重の世界をとどめていたからね。

(佐藤隆介編『池波正太郎・鬼平料理帳』より)

これは、つい先日亡くなった歌舞伎俳優・中村吉右衛門の当たり役、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵が主役の、『鬼平犯科帳』に登場する“美味いもの”を抜き出し、解説と料理法を再現した1冊です。冒頭には、著者・池波正太郎氏の語る「江戸の味」が、上記のように話し言葉で記されていて、江戸の時代小説ファンや食いしん坊にはたまらない本です。

池波氏自身、飲み食いが好きな人だったので、以前にこのコラムでご紹介した『仕掛け人・藤枝梅安』同様に、『鬼平犯科帳』にはさまざまな“美味いもの”が登場します。池波氏は、ある読者に「鬼平は、ずいぶんお粥が好きですね」と言われたことがあるらしいのですが、実は作者が好きだったからというのがその理由なのだとか。なかなか微笑ましいエピソードです。

ほんのちょっと知恵をはたらかせれば、うまいものはいろいろとあるはずなんだよ。現代はそういう頭のはたらきが鈍くなってしまった。むかしの人というのは、年中、頭を使っているわけです。
(中略)それなら料理はこうこうしようとか、こっちで火をつけてゆでている間に、もう一方で何か刻むとか、そういうふうにして二つのこと、三つのことを同時にやるわけでしょう。その訓練が自然に感覚を鋭いものにするんだよ。

(佐藤隆介編『池波正太郎・鬼平料理帳』より)

このくだりなど、少々耳が痛いですね。料理というと「時短」がもてはやされる昨今、手抜きばかり考えて、大事な感覚が鈍ってしまったり、大切なものを見失ってしまったりというようなことのないようにしたいものです。こんな風に市井の人が質素ながら工夫を凝らした食生活を送っていた一方で、大名たちは贅沢三昧のような印象が、特に時代劇などでそれを目にしている私たちにはあるのですが、実はそうではなかったようですね。体面を保つために表向きは贅沢をしているように見えて、その金を作るために実生活は質素そのものだったそうです。

「ま、一杯引っかけて行くがよい。今夜は、まるで冬が戻ってきたようじゃ。おい、婆さん、婆さん……」
すると店の方から、お熊の威勢のよい声が、
「ちゃんとわかっているよう、銕つぁん、肴は何だとおもう?」
「肴の仕度もしてくれるのか?」
「蒟蒻の千切ったのを叩っこんだ、舌のちぎれるように熱い……」
と、いいかけるのへ、
「ふうん、狸汁か……」
平蔵がなつかしげな眼の色になった。
酒井祐助が目をみはって、
「あの、狸の肉でございますか?」
といったものだから、佐嶋忠介が、めずらしく吹き出した。

(池波正太郎『鬼平犯科帳』「丹波守下屋敷」より)

この「銕つぁん」とは、平蔵が若い頃、無頼漢の頭として放蕩三昧の日々を過ごしていた頃の呼び名ですが、お熊という茶屋の店主は、その頃の平蔵を知っていると同時に、質素ながら彼好みの肴を用意してくれる頼もしい女だったのでしょう。しかも、この日の狸汁とは、手で千切った蒟蒻を胡麻油で煎って味噌汁にした、いわゆる精進料理。ああ、この本を読んでいると、亡くなった吉右衛門さんの盗賊までを包み込むような声や、はにかむ仕草が目に浮かぶようです。故人を偲んで今夜は日本酒をぬる燗で献杯としますか。どうぞごゆっくり。

【今回紹介した本】
佐藤隆介編『池波正太郎・鬼平料理帳』(文春文庫 1984年刊)

鬼平犯科帳は、主人公・長谷川平蔵の魅力もさることながら、登場人物がさまざまな局面で美味しそうに飲み食いする描写も読者を惹きつける要素のひとつ。自他共に熱狂的池波正太郎ファンと認める著者が、鬼平犯科帳全巻から美味しいものを抜き出し、料理を再現して解説を付した1冊。これを読むと、また小説を読み返したくなること必至です。

文:R