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ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日はいつかフランスのルーブル美術館に行ってみたいKが店番です。

いよいよ今年もあと1カ月を切りました。1年が経つのは本当に早いものですが、年末というと思い出す光景があります。私がまだ小さかった頃、両親がクリスマスプレゼントに『NHKルーブル美術館』という全7巻の本を買ってくれました。これは、NHKとフランスのテレビ局が共同制作したルーブル美術館を紹介した番組の内容をまとめたガイドブックで、展示物が美しいカラー写真で紹介されているんです。当時1冊が3000円以上していましたから、親もずいぶん奮発してくれたんですね。

その第6巻の中の1枚の絵に、私は子供心に激しく魅了されてしまったんです。「大工聖ヨセフ」と題したその絵は1640年頃にジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家によって描かれたもので、幼いイエスが手にロウソクを持ち、その光がイエスの顔と体をかがめた父ヨセフの顔を照らしているという宗教画。

私は父が「ひ」と「し」の区別がつかないようなコテコテの下町育ちで、宗教は浄土真宗。当時の私はイエスもヨセフもわからなかったはずです。なのに、どうしてこの絵に惹かれたのか。その謎が『さよならソルシエ』というコミックを読んで解けたんです。お客様はコミックはお読みにならないですか? でも、騙されたと思ってぜひ手にとってみてください。

このコミックは日本人にもおなじみの画家フィンセント・ファン・ゴッホと、その弟テオドルスの物語。天才的な絵の才能を持ちながら変わり者と言われた兄と、そんな兄の才能にいち早く気づき画商となった弟の姿を描いています。当時のフランスの画壇は権威主義で、芸術は貴族階級のもの。田舎から出てきた無名の画家や、カフェでくだをまいているような売れない画家の絵など、見向きもされない時代。

そんな中、体制に真っ向から勝負をするのが弟テオドルス。彼は当時のパリの常識では考えられないやり方で画壇に勝負を挑み、無名の画家たちの作品に光をあてていきます。ゴッホが変人だったことは知られていますが、『さよならソルシエ』の中では弟のテオのほうが、はるかに変人として描かれているんですよ。

パリにやってきたばかりの兄のフィンセントは、都会のルールも画壇のことも何もわからず弟のテオに迷惑をかけています。それを申し訳ないと思い感謝の気持ちを述べるとテオはこう言うんです。

知ってるか兄さん
画商が――
心を揺さぶられて仕方ない作品に出逢った時の感動をなんと呼ぶか
恋だよ
生涯忘れることのないたった一度の出逢い

『さよならソルシエ 1』穂積(小学館)より

テオはきっと兄の絵に魅了され生涯に一度の恋をしてしまったのではないでしょうか? それと同等に語るのはおこがましいですが、きっと子どもの頃の私も、「大工聖ヨセフ」の絵に恋をしたんだと思います。作者が思いを込めて描いた絵というのは、作者が誰なのか、描かれた人物が誰で、どんなシーンなのかといったことが分からなくても見る者の心を揺さぶるものなのだと長い年月を経てやっと知ることができました。

今こうして私達が絵や歌、コミックや映画など、さまざまなカルチャーに気軽に触れられるのはテオドルスたちのように、情熱を持って体制と戦ってきた人たちがいるからなんですねえ。そうした先人たちの命がけとも言える努力がなかったら、未だにカルチャーは特権階級だけのものだったかもしれないと思うとぞっとしますよね。

今夜は『さよならソルシエ』の中で若い無名の芸術家たちが毎晩のように酒場で飲んでいた薬草種アブサントでも飲んで、先人たちに感謝の意を表しませんか? テオドルスはアブサントのことを「毒みたいな飲み物」と言っていましたが……。

【今回紹介した本】

『さよならソルシエ』穂積(小学館)全2巻

19世紀末、パリ。のちに天才画家と言われたゴッホがまだ無名の頃から彼の才能に気づき、天才画商と呼ばれたテオドルス。生前、1枚しか絵が売れなかったゴッホが、現代では世界的に有名になったのは、弟テオの奇抜な策略と野望があったから……。そんな兄弟の数奇な運命を描いた宿命の伝記。

『NHK ルーブル美術館』高階秀爾 監修・責任編集(日本放送出版協会)全7巻

NHKとフランステレビ1が共同制作したルーブル美術館を1年間13回にわたって紹介した番組「NHK ルーブル美術館」。そこで紹介された厖大な展示物の写真を収めるとともに、文化史や美術史の専門家による解説やエッセイを付した豪華なガイドブック。

文:K