いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日はアナログ人間なKが店番です。
少し前の話になりますが、オックスフォード大学が発表した「雇用の未来—コンピューター化によって仕事は失われるのか」という論文が話題になったのを覚えていますか? AIの進化にともない、将来なくなるであろう仕事を予想した論文で、結構話題になりました。その論文によると、バーテンダーの仕事がAIにとってかわられる確率は77%だそうです。このバーもいつしかAIが切り盛りするようになるんですかねえ。なんとも寂しい限りです。
しかし今のコロナ禍がまさしくそうであるように、世の中には絶対なんてありません。世界中のほとんどの人々がパンデミックによって失業したり、命を奪われるような危機にさられるなんて、想像もしていなかったんじゃないでしょうか。この仕事は10年たっても、20年たってもなくならない、安定している、なんて保証はどこにもないわけですし、反対にこのバーが「世界のベストバー50」に選ばれる可能性だってゼロではないということですよね。いや、そんなものは目指していませんが、絶対がないならば、好きなこと、誰かを喜ばせること、自分が楽しくなることを仕事にしたいと思いませんか? それを実現した方が書いた本があるんですよ。
『古くてあたらしい仕事』というタイトルですが、著者は三十三歳の時に、従業員は自分ひとりという出版社「夏葉社」を立ち上げた島田潤一郎さん。本によると、転職活動に失敗して、会社をやるしか選択肢がなくなったのが起業したきっかけだそうです。しかも出版社をやるまで、編集の経験はゼロというから驚きです。そんな彼を突き動かしたのは、従兄や友人の早すぎる死。彼は唐突な別れをいくつか体験し、こう思ったそうです。
人生は嘆いたり、悲しんだりして過ごすには、あまりにも短すぎる。
出版の世界に興味はあるけれど出版社には就職できないだろうし、そもそも出版業界は斜陽産業だからなどと悩むより、自分が「本が好きだ」という気持ちを大事にして、島田さんはひとり出版社を立ち上げたのです。そうした彼の「仕事」や「働くということ」に対する考えや姿勢は出版業界のみならず、多くの人の共感を得て、この本は「働き方の本」として話題となりました。
小学生がなりたい職業の上位に「YouTuber」が入るような時代ですから、子どもたちから見たら、わざわざ紙に印刷して在庫を抱え、コストをかけて流通させる「出版」なんていう仕事は、化石のように思えるかもしれません。でも、その古い仕事の中に「新しさ」という価値を見つけ出せるのは人間にしかできないこと。
たとえ本屋さんに置いてもらうことができなくても、最後の最後は、ひとりひとりの読者に手売りすればいい。そうすれば、最終的には赤字にならない。経営論的には大間違いなのかもしれないが、ぼくが思い描いていたビジョンとは、つまりそういうことだった。
『古くてあたらしい仕事』(新潮社)より
「作った本を本屋さんに置いてもらえなくても仕方ない」という考えは、出版界の常識(いや、普通の製造業でも)からは懸け離れています。でもそれくらい覚悟をもって、島田さんは1冊1冊の本を魂をこめて作っています。彼にそうしたビジョンや愛があったからこそ、起業から10年以上たった今も「夏葉社」のつくる本は読者に愛されているんでしょうね。ちなみに夏葉社が作る本は、手売りではなく、ちゃんと本屋さんで買うことができます。
もしかしたら、ぼくはたいした仕事ができないかもしれない、とも思う。けれど、そもそも世間に認められたくて、仕事をするのではない。だれかを打ち負かすために、仕事をするのでもない。自分が全力を注ぐことができる仕事を自分で設計し、それに専念する。
『古くてあたらしい仕事』(新潮社)より
経験もないのに編集から営業、事務、発送作業まで、すべてをひとりでこなす出版社を起業するなんて、正気の沙汰ではないように思えるかもしれません。でも冷静に考えてみたら、一度しかない短い人生、誰かに認めて欲しい、誰かを打ち負かしたいという理由で仕事をするほうが正気の沙汰ではないかもしれません。
働くすべての人、これから働く若い人にもぜひ読んでほしい1冊です。では、私もおしゃべりばかししてないで、仕事をしますか。今夜は蒸し暑い夜にぴったりのすっきりした白ワインはいかがですか。
【今回紹介した本】
島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』(新潮社)
編集経験ゼロから、ひとり出版社・夏葉社を立ち上げて10年以上。儲かるための経営本でも、仕事のモチベーションをあげるための啓蒙書でもなく、「誰かのために働くということの尊さ」「誰かのためには自分に返ってくる」ということを教えてくれる、働き方のバイブル。
文:K