偏愛的絵画鑑賞のすゝめ

偏愛的絵画鑑賞のすゝめ vol.1 青木繁「海の幸」

永遠の未完成だからこそ、心を捉えて離さないのかもしれない。

青木繁《海の幸》1904年、油彩・カンヴァス,70.2cm×182.0cm 石橋財団ブリヂストン美術館蔵

 

 

おそらく、日本の洋画黎明期にあって、最も有名な作品の一つが青木繁の「海の幸」ではないでしょうか。東京美術学校(現・東京芸大)を卒業した1904(明治37)年、青木が弱冠22歳の夏に制作されました。在学中の前年に神話を題材とした作品群により、明治後期の洋画壇の主流であった「白馬会」の「白馬賞」を受賞し注目を集めた青木は、今作でその評価を不動のものにします。手に手に銛をもち大きな鮫のような獲物を担ぎながら意気揚々と行進する赤銅色に輝く裸体の10人の漁師たち。その姿は、海の幸の豊穣と収穫の悦びを謳いあげた原始の祝祭的な讃歌であると絶賛を浴び、一躍時代の寵児ともてはやされることになります。

しかし、残念ながらこの年が若き天才画家のピークとなりました。3年後、入念な準備を経て東京勧業博覧会に自信満々で出品した作品「わだつみのいろこの宮」が三等末席に終わると、青木はその結果に憤慨し、画壇に痛烈な批判を加えます。自らも天才と認め、強烈な自負心から傍若無人にふるまうようにみえた青木の素行は、実生活でも軋轢を生んでいました。こうした画壇への異議申し立ては自らの首を締めるようなものでした。同年の夏、父危篤の報を受けて久留米に帰省。これが青木の人生のターニングポイントとなります。画壇の蚊帳の外に追いやられ、九州各地を放浪し、中央画壇への復帰を画策しますが、その夢が叶うことはありませんでした。やがて、肺結核で入院、翌年に28歳の若さで亡くなりました。

はじめて「海の幸」を目にしたのは、確か京橋のブリヂストン美術館だったと思います。複製画でみていた時には、壁画のように大きなサイズを想像していました。生命の讃歌とも思える絵の内容がそう思わせていたのでしょう。ですが、横幅2メートルにも満たない実際の作品と対峙した時の感動は今でもありありと蘇ります。そして、何より意外だったのは、一見、この絵は未完成なのではないかと思わせるそのタッチでした。制作途上のさまざまな痕跡が意図的に残されており、縦横にひかれた下書きの線や、塗り残しも多く見られます。赤や黒の輪郭線は強くぶっきらぼうに刻み付けられ、生々しい男たちの息づかいが聞こえてきそうです。その中にあって、一人だけこちらを見つめる人物の存在に目が離せなくなりました。赤銅色の身体からは不釣り合いなほどに顔を白く塗られたその人は、女性のような美しい面差しをもち、不安そうな表情のまま小さく驚いているようにみえます。実はこの人物は、当時の青木の恋人であった福田たねをモデルにしていると言われています。

青木は、彼女を美しくキャンバスに残すためだけに「海の幸」を描いたのではないでしょうか。その視線は、この世から忽然と姿を消した最愛の天才画家の行方を探し求めて、不安そうに画面の外に向けられているかのようです。永遠に成就することのない二人の愛のカタチを描いた「海の幸」は、だからこそ未完成のまま、私たちの心を捉えて離さないのかもしれません。

才能を惜しんだ友人たちによって、死の翌年には早くも遺作展が開かれ、それを見た夏目漱石は、青木のことを天才と呼び、その早すぎる死を悼んだと言います。「海の幸」は、明治浪漫主義絵画を代表する作品として、洋画では最も早い1967年に重要文化財に指定されています。

 

■現在「海の幸」を所蔵する石橋財団ブリヂストン美術館は、ビルの建て替えに伴う新築工事のため、2015年5月18日より長期休館に入っており、2020年1月にオープン予定ということです。

 

青木繁写真、1907年頃
石橋財団ブリヂストン美術館提供

 

青木繁(あおき しげる)
[1882~1911]洋画家。久留米の生まれ。東京美術学校卒。西欧世紀末芸術の影響を受けて伝説・神話に取材した作品が多い。放浪のうちに28歳で夭折。代表作は「海の幸」「わだつみのいろこの宮」など。