つたえる

文京回想録その1 ~文京区水道編~

生まれも育ちも文京区、というわけではないのだ。

隅田川のほとり、東京の下町を駆けずり回って育った私だが独り立ちしてからというものは山の手の文京区と縁深い人生を歩んできたものだ。

 

世間でバブル崩壊が叫ばれて程なく、どこか世の中が混沌としてきた最中、私は社会に放り出された。
これといった特技も資格もなかった私だが、漠然とやりたいことは分かっていた。

モノをつくる、という事だ。

初めて仕事に就いたのは文京区水道にある写真製版の会社だった。住宅街に囲まれ、裏手を流れる神田川には申し訳程度に小さな橋が掛かっていた。橋の名前は・・・知らない。

2階の作業場、ライトテーブルが私のデスク代わりだった。1階の青焼機はあの独特の匂いを意気揚々と休むことなく放っていた。
大手の印刷会社を取り囲むように同業の製版会社・紙卸問屋・企業の出版部門が立ち並び、そのどれもが印刷という仕事を媒介して何かしらの繋がりを持っていた。

今となっては古き良き、どこにでもある零細企業の風景があの場所には存在していた。
確実に。

 

私のはじめての職業はいわゆる“レタッチマン”だ。

細かい手作業、まるでパズルの組み立てを思わせる行程、効果的な色演出の設計、それらをこなしていく毎日の中でモノをつくるという感覚を肌で味わっていた。
中吊り広告や楽譜、路線図やビデオのパッケージ、雑誌のひとコマなどあらゆる種類の仕事が舞い込み、切っては貼ってを飽きもせずに何年も何年も繰り返した。

 

そして私は一人前のレタッチマンとなった。

 

私が一人前になるのを待っていたのだろう、きっと。
時を待たずしてレタッチマンが必要のない時代を迎えた。私が何年もかけて身につけた技術なんてMacintoshがいとも簡単にこなしてくれるようになった。

一人前になりたての私は行く末を案じ、そして会社を辞めた。

 

その後は九段、江戸川橋など文京区内で職を転々とした。いずれも印刷を軸とした仕事だったのは、初めて就いた仕事への思い入れが多分に影響していたのかもしれない。

時を経て、ホテル椿山荘東京で知り合いが結婚式を挙げた。凡庸さに富んで形式ばった月並みな式だったが、2人の人生の節目に立ち会えたことはそれなりの感慨を私にもたらした。
ひと通りの祝辞と祝福の思いを伝え尽くし帰路につくとき、ふと思い出した。飯田橋方面への帰り道は思い出の地、文京区水道へ差し掛かる。
当時の面影を残してはいるものの、様々なものが変わっていた。

右も左も分からなかった私を一人前のレタッチマンに育ててくれた写真製版の会社はもうそこにはない。同業者たちも次々と会社を畳んだようだ。
風景は切って、貼って、新たなデザインを作り上げていた。

数々のレタッチマンたちは時代の波に翻弄され、飲み込まれ、二度と浮上することなく忘れられた存在となり、今ではその存在を知る人の方が少ない職業となった。

昔の偉大な科学者は、変化できるものだけが生き残れるのだ、と言ったとか。
そう思う、確かに。

 

小さな橋が見えてきた。
名前は知らない。

蘇る思いまで変える必要はないのだ。

初心忘るべからず、である。