いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。新幹線で飲む缶ビールに目がないRが店番です。

以前は年に何回も仕事や旅行で新幹線を使ったものですが、気がつけばずいぶん遠ざかっています。新幹線と言えば私にとっては東京駅。構内で、これから旅立つ、あるいは上京してきたばかり。忙しそうに行き交う人々を包む浮き立った空気感はなんとも言えないものですね。このまま自分も適当な新幹線に飛び乗ってどこでもいいから旅に出たいなんて妄想してしまいます。そんなことを思ったのは、『エール!3』(実業之日本社文庫)というお仕事小説アンソロジーに新幹線にまつわるある仕事がテーマになった1編があったからなんです。

「お母さんは、一日に多くて二十回近く新幹線に乗ります。なのに、東京駅から一歩も動きません。なぜでしょう」
 小学三年生になる娘の里央が前に言った。叔父の葬儀で親戚が集まった際だ。
「なぜなら、新幹線の掃除をしているから」
 停車した新幹線に乗り込み、社内清掃をし、新幹線が動く前に降りる。わたしの仕事はそれだった。

(伊坂幸太郎ほか『エール!3』より)

これは、伊坂幸太郎さんの「彗星さんたち」という1編。人と話すのが苦手な主人公・二村は離婚していて、小学校3年生の娘を養うため仕事を探すのですが、新幹線の清掃なら喋らなくても掃除さえしていればいいのだから勤まるんじゃないかと思い、この仕事につくのです。しかし、いざ始めてみると、同僚や時には乗客と話す必要も出てきて、二村はこの仕事を続けていけるのかどうか悩みます。そんな彼女の心の内を見透かしたかのように「掃除をするだけでいいんでしょ、と思っていたら勤まらないからね」と言ったのが主任の鶴田さんでした。

「綺麗な場所は、そこを誰かが綺麗にしたからなんだよ。だからって威張る必要はないけど、こそこそしないで、これから新幹線に乗る人たちに『今、綺麗にしてますよ』って見てもらうのは大事なことだと思わない。手を抜いていませんよって分かってもらえるように」
「少しくらいの手抜きは必要だと思うけどね」
 鶴田さんはそこで顔を引き締めた。「ねえ、こういう言葉知ってる?」
「どういう」
「『常にベストをつくせ。見ている人は見ている』って」
 急に飛び出してきた勇ましい言葉に、わたしはギョッとせざるを得ないが、六郎さんも竹刀を突き付けられたかのように、びくっとなった。
「これね、パウエル国務長官の言葉」鶴田さんは少し顔の強張りを緩めた。

(伊坂幸太郎ほか『エール!3』より)

鶴田さんは、このパウエル氏の著書『リーダーを目指す人の心得』を愛読しているというのです。新幹線の清掃の仕事と、アメリカのブッシュ大統領時代国務長官を務めたコリン・パウエル氏――先日亡くなりましたが――の言葉が繋がるというのが意外なような、当然のような、この本から引用されたいくつかの言葉が要所で重みを持って語られ、物語は進んでいきます。

 三津子さんは姉妹に向かい、「あのね、どんなことも、思っているほどは悪くないんだってよ」と言った。
「え」姉のほうがぼんやりと答えた。
「次の日には、少しは物事が良くなってるの」
 それ、鶴田さんから教わった言葉なんだよね。
   (中略)
「わたし、この仕事に入った時、鶴田さんにいろいろ教えてもらって、今も大事にしている言葉があるんですけど」星山さんがおもむろに言った。「『大事なのは、冷静でいることと親切でいることよ』って」

(伊坂幸太郎ほか『エール!3』より)

新幹線がホームに入ってきて、客を乗せて再び出発するまでのわずか7分間で清掃を終えなければならない彼らの責任感の礎となり、モチベーションを高めるひとつひとつの言葉。タイトルには「リーダーを目指す人の」とありますが、これはリーダーだけではなく、どんな人もそれぞれの場所できちんと生きるための言葉であるような気がします。私も鶴田さんの影響でパウエル氏の著書を読みたくなってしまいました。今夜は新幹線のお供、出張の帰りなどには疲れた心身を“ぷは~っ”というため息と共にリセットしてくれる缶ビール(私は黒ラベル派です)を飲みながら、心得をひとつずつ噛みしめてみませんか? 今夜もどうぞごゆっくり。

【今回紹介した本】
伊坂幸太郎ほか『エール!3』(実業之日本社 2013年刊)
タイトルの「エール!」とは、さまざまな仕事に携わるひとりひとりに送る応援のこと。運送会社の美術輸送班やベビーシッター、イベント企画会社など多彩な職場で働くヒーロー・ヒロインの奮闘を描く6編のアンソロジー。著者はほかに原田マハ、日明恩、森谷明子、山本幸久、吉永南央。

コリン・パウエル/トニー・コルツ『リーダーを目指す人の心得』(飛鳥新社 2012年刊)
ペプシ工場の清掃夫から国務長官にまで上り詰めた伝説の人物、コリン・パウエル。「コリン・パウエルのルール」とされる自戒13ヶ条を初めとして、なぜ国務長官になり得たのかなど、人生を振り返る豊富な逸話も魅力的。彼だからこそ語れる逆境を乗り越えるためのノウハウが満載。

文:R