いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日は職人仕事に憧れを抱くKが店番です。
8月に入って暑さが本格的になりましたね。これからしばらくは、エアコンはつけっぱなしになりそうです。それを見越して夏前に専門業者に依頼してエアコン掃除をしてもらったんですよ。手際よく細かいところまで掃除をしてもらって、冷房の効きがよくなった気がします。さすがプロの仕事ですね。
プロの仕事と言えば、私はその道の専門家が書いた本が好きなんです。料理本でもフレンチのシェフや和食の板前さんが書いた本なんていいですね。本に書いてあるレシピが本格的すぎて自宅ではほとんど作ることはないんですが、プロならではの魚の下処理ですとか、野菜の切り方なんかを見ていると、外食したときに「この料理にはこんな手間暇がかかっているんだろうな」と想像できて、食べる楽しみが一層増すんです。他にも私の本棚には建築関係や盆栽の本、レコーディングミキシング関係の本などが並んでいます。もちろん私は建築も盆栽も音楽もやりませんが。
そんな数ある専門書の中で特に気に入って何度も読み返しているのが『小説講座 売れる作家の全技術』です。これはハードボイルド小説「新宿鮫」シリーズが人気の直木賞作家・大沢在昌さんによる、プロの作家になりたい人のための本です。もちろん私は小説は書きませんが、小説読みならぜひ一度は手に取って欲しい本です。
この本は公募で集まったプロの作家を目指す人に大沢さんが指導をするという講座を実際に開き、その経過を収録したものがベースになっています。受講者が書いた課題を大沢さんが添削したりするんですが、その厳しくも納得の指摘にページをめくる手が止まらなくなります。たとえば……。
一人称というのは視点が一つしかない。情報が一点からしか入らないということは物語を動かす上でかなりの足枷になる―――『小説講座 売れる作家の全技術』より
という大沢さんの言葉。一人称とは「私は」「僕は」などと主人公が話し手となって物語が進む書き方の手法のひとつです。つまり、一人称の小説では主人公の見たもの、聞いたものしか描くことができないということです。間違っても「私の頬が赤く染まった」などと書いてはいけないというわけですね。鏡でもない限り、私の顔が赤くなっているかどうかは分からないわけですから。案外、これがスルーされて本になってしまっている作品もありますが、本来はそうであるべきなんですよね。これはほんの一例ですが、この本にはこうした小説を作る際の舞台裏が惜しげも無く書かれていて、プロの作家が小説を書く際にどれだけ細かいことに気を配っているかが分かってとても面白いんです。
私にとってその道のプロ、売れっ子が書く専門的な本は、その仕事の凄さを再確認し、その世界を深く楽しむためのガイドブックのようなものです。大沢さんのこの本を読んだ後に小説を読むと、作家が仕掛けたさまざまな工夫や細かい技術に気づくことができて、作品をより楽しむことができるので、おすすめです。
しかし大沢さんは、こんなに小説を書くコツを披露してしまって大丈夫なんでしょうか? テクニックを盗まれてしまうんじゃないかと心配にもなりますが、そんな単純なものではないですね。本を読んで技術が分かったところで、そう簡単にフレンチシェフのような料理が作れるようにも、売れる小説が書けるようにもなりませんから。むしろこれだけ変態的にこだわりを持って小説を書いている大沢さんは「真似できるものなら真似してみろ」と思っているかもしれませんね。
そんな大沢さんに敬意を表して、今夜はハードボイルドにぴったりのウイスキーで乾杯といきましょうか。
【今回紹介した本】
大沢在昌『小説講座 売れる作家の全技術 デビューだけで満足してはいけない』(角川文庫)
売れっ子作家であり、数々の文学賞の選考委員を歴任した「小説のプロ」が、自信の知識を惜しみなく、しかも分かりやすく面白く描いたエンタメ系小説講座の決定版! 発売当時、作家を志す人はもちろん、プロの編集者もこぞって購入したという小説好き必読の一冊。
文:K