いらっしゃいませ。
ようこそBookBar坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。本日は本に負けず劣らず食に対する偏愛も自覚しているRが店番です。
今日は、何にいたしますか?蒸し暑いですからね。ちょうど良く冷えたビール。あるいは赤ワインでも、ちょっとばかり冷やして美味しい赤もあるんですよ。それにしても、最近飲みたいものはあっても、食べたいものが浮かばないなんてことありませんか?何のせいとは言いたくありませんが、相変わらず先の見えない閉じこもり生活のせいでしょうか。
そんな中、とりあえずこれで何か作ろうかなと思うのは卵。卵は何十年も前、昭和の時代から値段が変わらない「物価の優等生」などとよく言われます。そんな安価なイメージはあるものの、ゆで卵に目玉焼きというあまり手のかからないものから、オムレツ、だし巻き卵、そしてポーチドエッグを載せたエッグベネディクトなんていいですよね。卵はどんなものにも化けられる名優、あるいは名バイプレイヤーじゃないですか。ああ、考えただけでお腹がぐぅと鳴りそうになりました。そう実は卵好きです。先日、卵が好きな王様の本をご紹介しましたが、今夜はこんな書き出しで始まる一遍がある本を見つけてしまいました。
卵料理が好きです。そして僕が思う世界最高の卵料理、それは、「月見うどんの卵黄を破ってうどんをすする最初の一口」です。
(稲田俊輔『おいしいものでできている』リトルモア)
卵料理が好きです――まるで私が言ったかと思うような台詞。それにしても、そのあとに世界最高の料理として「月見うどんの卵黄」が続くとは。そして……。
ダシの熱でほどよく温まり、わずかに粘度を増しつつも部分的に冷たさを残した卵黄、そのミルキーな香りと濃厚なコクをダシの旨みが下支えし滑らかなうどんにまとわりつく、一口の愉悦。啜りきる直前に初めて感じる、うどんの端に引っかかった無味に近い卵白の滑らかなテクスチャーと咀嚼後からそれを引き締め始める葱の香味。コンマ数秒の間に濃密なドラマが展開し、卵という食材の魅力があらゆる角度から引き出される立体感は、まさに唯一無二のものです。
これってどう思いますか?TVのバラエティ番組などで「○○さんは『食レポ』が上手い」あるいは「下手」などとよく言っていますが、月見うどんの卵黄でこれだけの描写ができるなんて、TVに出たらみんな啞然とするんじゃないでしょうか。まさに卵黄が生きているかのようです。偏愛を通り越して変態では?とは言い過ぎですかね。
この本の著者・稲田俊輔さんは、和食、ビストロ、インド料理など多彩な飲食店を展開する会社の経営に携わる料理人・飲食店プロデューサー。子どもの頃から食にはつよい興味を抱いていたようです。『おいしいものでできている』は、幼い頃、母親が不在のときに父親が作ってくれた絶品のパスタや、小学校の遠足で「500円以内」という制限のあるおやつのエピソードなど、食への偏愛が縦横無尽に語られた1冊。「食いしん坊はめんどくさい。」という帯コピーの通りの本です。
そして稲田さんは、大好きな「月見うどん」だけれども、最高なのは最初の一口だけで、あとは卵が出汁にとけていって、その愉悦を味わえなくなることから、とうとうこんな妄想まで…。
もし自分がお殿様ないし石油王であったなら、食膳に十杯ぐらいの月見うどんを並べて、その片っ端から「最初の一口」だけを楽しみたい、と妄想したこともあります。「余は満足じゃ。残ったうどんはそなたたちで食べるが良い」。そう言い残して悠然と席を立つのです。しかしそれは余りにも人としてどうかと思いますし、何より下品極まります。
何とも凄い妄想ですが、少しだけ気持ちは分かる気がします。とはいえ、結局はその「最初の一口」の儚さこそが愛すべきもので、二口目から先はその思い出を反芻しながら食べ進めるのがいいのだという結論に至ります。お世辞にもグルメな食べ物とは言えない月見うどんに始まって、なんとも壮大な物語を読んだような気分にさせてもらいました。どんな食べ物でも突き詰めてみると、思いも掛けない気づきもあったりして、世界の広がりが感じられるものですね。稲田さん曰く、「世界はおいしいものでできている シアワセもだいたいおいしいものでできている」のだそう。今夜もシアワセを感じるために、冷えた赤ワインでもいかがですか。どうぞごゆっくり。
【今回紹介した本】
稲田俊輔『おいしいものでできている』(リトルモア2021年刊)
料理人・飲食店プロデューサーの著者が、自らの食に対する思いを十二分に熱く語る。チキンライス、サンドイッチ、ポテトサラダなど定番メニューながら「おいしいものには何かがある」と気づかせてくれたものたちに対する偏愛。ファミレス「サイゼリヤ」を活用する術でも話題を呼んだ著者による、まさに「食いしん坊はめんどくさい」ことがわかる1冊。
文:R