いらっしゃいませ。
ようこそBook Bar 坂ノ途中へ。
ここは、編集者RとKのふたりが営むバー。今夜は一年のうち春が一番好きなKが店番です。

3月になると、日本全国あちらこちらで、桜の開花がニュースになりますね。いよいよ春といった感じです。桜といえば、この季節になると決まって思い出す小説があるんですよ。

それは『桜宵』というミステリー小説の連作短編集です。小説の舞台となるのは、東京・三軒茶屋にある小さなビアバー「香菜里(かなり)屋」。度数の違う4種類のビールと、店主の工藤が作る気の利いた酒の肴が味わえる居心地のいい店には、ときどき相談事や不思議な事件が持ち込まれるんです。

『桜宵』は「香菜里屋」を舞台にした全4作のシリーズの2作目ですが、表題作の「桜宵」という短編は桜をテーマにしたお話。亡き妻が残した手紙にあった「香菜里屋という店を一度訪ねてみてください。私が贈る最後のプレゼントを用意しておきました」という言葉に従い、店にやってきた中年男。ある謎をずっと胸に抱えていたその男はバーのマスター工藤から思いがけない妻からのプレゼントを受け取ることになるんですが、これが実に切なくて余韻がある話で……と、いけないいけない、ミステリーなので話の続きはお話ししないほうがいいですね。

このシリーズはミステリーとしての素晴らしさはもちろん、工藤の料理がまた実に美味しそうで、食いしん坊にはたまらないんですよ。中でも私はキャベツを使ったさまざまな料理が気になって、レシピを想像して作ってみたこともあるくらいです。「キャベツに軽く塩を振ったものをビネガーのかわりにレモン汁を使った軽めのドレッシングで」とか、「春キャベツとアンチョビソースのパスタ、隠し味にパスタを茹でるときに醤油を数滴入れて」とか、「春キャベツとウインナーのグラタン仕立て」…などなど。ね、美味しそうでしょ?

著者の北森鴻氏は、2010年に48歳の若さで亡くなってしまったんですが、幸いにも生前に一度だけインタビューをする機会があって、あのキャベツレシピはどのようにして考えたのか、聞いてみたんです。意外なことに北森さんは、長らく売れない時代が続き、食費にも困窮するありさまだったそうです。若い頃に飲食店の厨房で働いていたこともあり、料理が得意だった北森さんは、安くてボリュームがあって、生でも焼いても煮ても美味しいキャベツを1つ買って、ありとあらゆる方法で調理して飢えをしのいだと笑いながら話してくれました。それが作品の中に生かされているんだと……。

工藤の過剰ではなく、でもほったらかしでもない絶妙のサービスと、美味しい酒と料理。香菜里屋シリーズのファンには「こんな店が本当にあったら」と言う方が非常に多くて、ありもしない店を探して三軒茶屋をウロウロされる方も多いんだそうです。実は私もそのひとりで、「香菜里屋があるとしたらこの辺りかなあ」なんて路地裏をウロウロ。そんな風に現実と架空の世界の境界線を曖昧にさせるような、不思議な魅力がこの小説にはあるんですよ。シリーズの4作目で「香菜里屋」は閉店してしまうんですが、今も閉店を惜しむ声が後を絶たないそうです。これほど、愛される架空のビアバーも珍しいんじゃないでしょうか? 私も一度行ってみたかったですねえ。

そろそろ春キャベツが美味しい季節です。「香菜里屋」のようにはいきませんが、今夜はビールにキャベツ料理を合わせて北森さんを偲ぶのにお付き合いいただけませんか。

【今回紹介した本】
『桜宵』北森鴻/講談社文庫

ビアバー「香菜里屋」を舞台にした連作短篇小説シリーズの第2作。綺麗に手入れされたビアサーバーから注がれる冷えたビール、気の利いた酒の肴、行き届いたサービス、不思議な店主の謎解きが楽しめる、美味しそうな珠玉のミステリー。シリーズ第1作の『花の下にて春死なむ』は、第52回日本推理作家協会賞、および連作短編集部門受賞の傑作。

文:K