根津神社裏の坂を上り、日本医大前の信号を右に折れて細い道をしばらく歩くと、文京区の案内板と川端康成の揮毫による立派な石碑、壁の上にちょこんと猫の像がある一角に出ます。2年間の英国留学から帰国し、妻子とともに明治36年から3年間住んだ夏目漱石の旧居跡です。この千駄木の家で『吾輩は猫である』を書き、一躍文壇にその名を轟かすことになります。
当時、漱石は東京大学英文科と第一高等学校の英語講師を勤めていましたが、英国留学で悪化した神経衰弱は悪くなるばかりで、見かねた正岡子規の門弟で俳人の高浜虚子が気晴らしになればと、俳句雑誌「ホトトギス」への執筆をすすめました。飼い猫をモデルしたこの小説をわずか2週間で一気に書き上げたということです。小説の猫はキジトラですが、実際の猫は黒猫で、「この猫は足の爪の先まで黒い福猫でございます。飼っていれば家が繁盛いたしますよ」と出入りの按摩をしていたお婆さんが、漱石夫人に断言したとか。小説と同じように、猫に名前はなく、猫、猫と呼ばれ、漱石の背中に乗ったり、子どもたちと遊んだりしながら幸せに暮らしたそうです。
『吾輩は猫である』は、当初は1回だけの読み切りの予定でしたが、好評のため続編が書かれることになりました。以降、『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』と名作を矢継ぎ早に発表。まさに、漱石にとって名前のないこの猫は福猫そのもので、文豪夏目漱石誕生のきっかけとなりました。『吾輩は猫である』では、主人公の猫はビールを飲んだ後、水甕に落ちて溺れてしまいますが、実際に飼っていた猫は病気で亡くなります。漱石は、その死を悼み猫の死亡通知を知人に送りました。その最後はこう結ばれています。『但、主人「三四郎」執筆中につき御会葬には及び申さず候。以上』。亡骸は裏庭に埋葬し、角材に「猫の墓」と書いて墓標とし、命日にはお供えを欠かさなかったと言います。
「漱石」はペンネームで、本名は夏目金之助といい、数代前からの名主の末っ子として慶應3年に新宿で生まれた、ちゃきちゃきの江戸っ子でした。「頑固で負けず嫌い」な性格だったそうで、「漱石」は、自分の失敗を決して認めず屁理屈をこねることから転じて、負け惜しみが強いという意味の中国の故事「漱石枕流」に由来しています。大学予備門で子規と出会って以来一生涯の親友となり、子規の俳号であった「漱石」を気に入り、これを譲り受けたものです。
明治40年四十歳のとき、一切の教職を辞して朝日新聞社へ入社し、創作に専念することに。以来、前期三部作『三四郎』『それから』『門』、後期三部作『彼岸過迄』『行人』『こころ』を完成させるなど、その文名を不動のものにしていきます。漱石が作家として活躍したのは、わずか10年ほど。宿痾ともいうべき胃潰瘍による内出血のため、大正5年(1916)、『明暗』執筆途中にその生涯を閉じました。享年四十九歳。
千駄木の家は漱石が住む13年程前の明治23年から1年余り、この「文京区ゆかりの文豪」シリーズの初回で紹介した森鴎外が住んでいました。二大文豪が同じ家に住んだという奇跡のような偶然です。現在、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してあり、漱石が住んだ当時のままをしのぶことができます。