文京区ゆかりの文豪 その素顔を訪ねて

「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」 ―宮沢賢治の理想と現実、そして未来―

前回紹介した石川啄木と同じ岩手県出身で、旧制盛岡中学の11年後輩にあたるのが宮沢賢治です。その作品が、現代においても色褪せることなく世代を超えて読み継がれながら、生前はほぼ無名であったことなど、二人には共通点が多く、菊坂もまた、啄木と同様に賢治の青春を彩る大切な場所です。代表作は、童話『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』、詩歌『春と修羅』『雨ニモマケズ』など。1921年(大正10年)、25歳の賢治は故郷の花巻で、家業である質屋の経営や信仰上の問題で父と対立、家出同然に上京します。本郷菊坂町75番地(現在の本郷四丁目35-4)の二軒長屋の二階六畳に間借りし、仏教団体のボランティアをしながら、近所の印刷所でガリ版切りや校正の仕事で収入を得て、童話の創作に没頭したといいます。前々回に紹介した樋口一葉の旧住宅跡からも100メートル足らずの場所です。

改稿の多いことで知られる賢治ですが、多くの童話の第一稿がこの東京暮らしの中で書かれたと言われています。ベジタリアンだったという賢治はじゃが芋や豆腐などを食べながら、多い時にはなんと一日300枚の原稿を書きました。しかし、この暮らしもわずか7か月で終止符を打つことになります。「永訣の朝」に「けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよ」と詠われた妹トシさんの病状が悪化したからです。弟の清六さんは「1か月に3000枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛び出して、そこらあたりを飛びまわったもんだと話したこともある程だから、 7か月もそんなことをしている中には、原稿も随分増えたに相違ない」と、当時の様子を著書の中で述べています。花巻には、書きためた原稿用紙を大きなトランクにぎゅうぎゅう詰めにして帰ったといいます。

文京区本郷4丁目35番地付近に文京区教育委員会により「宮沢賢治旧居跡 」の案内板が設置されている。きっと、賢治もこの階段を昇り降りしたことだろう。

 

花巻に戻ると、賢治は農学校の教師となりますが、詩や童話の原稿に推敲(すいこう)を重ねるのが日課でした。その出来によほど自信があったのでしょう。大正12年に上京。清六さんの下宿に大きなトランクとともに現れた賢治は「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さして見ろじゃ」と頼みます。清六さんは、「月刊絵本コドモノクニ」を発行していた東京社の編集部に原稿を持ち込みますが、「これは私の方には向きませんので」と数日後に慰勲に突き返されたというエピソードが残っています。もしも、野口雨情や北原白秋が活躍していた「コドモノクニ」に掲載されていたら、その後の文学史は変わっていたのかもしれません。

大正13年に、詩集「春と修羅」童話集「注文の多い料理店」を自費出版し、一部の作家から激賞されます。大正15年に農学校を退職すると、花巻市郊外で開墾自炊生活に入り農事指導に献身。農民に対する深い愛情と、浪漫的な宇宙観に貫かれた作品を書きますが、昭和8年病死、享年37歳。このトランクには後日談があります。賢治の没後、清六さんは、そのことに長い間気付かなかったそうですが、トランクの蓋の後ろにポケットがあり、そこに「雨ニモマケズ」が記された手帳が残されていたのだそうです。「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」。そう願った賢治の青春の日々を偲びながら、菊坂界隈を散歩してみてはいかがでしょうか。