文京区ゆかりの文豪 その素顔を訪ねて

望郷と漂白の天才歌人、貧窮の所為は斯くの如し

石川啄木記念館提供

 

前回紹介した樋口一葉の旧住宅跡がある菊坂界隈は、明治・大正・昭和を通じて多くの文豪たちに愛されました。石川啄木が旧制盛岡中学の先輩である金田一京助を頼って下宿した赤心館跡は、菊坂を本郷三丁目交差点方向に戻り、本妙寺坂を上がった現在の本郷5-5にあたります。啄木というと、『一握の砂』『悲しき玩具』という二つの歌集を残し、生涯を貧困に苦しんだ夭折の天才歌人で通っています。有名な「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」は、この赤心館でつくられたといいます。

本名は、石川一(いしかわ はじめ)。故郷の渋民村での代用教員を経て、新聞記者などをしながら函館、小樽、釧路を転々とし、1908(明治41)年、3度目の上京を果たします。この時啄木22歳。すでに妻子がおり、家族を函館に残し、文学で身を立てると決意しての上京でした。赤心館での暮らしは4ヶ月足らず。その間、わずか1ヶ月で小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を書き上げました。しかし、啄木の意に反して東京の風は冷たく、その掲載を悉く断られ、失意と苦悩のうちに、数多くの優れた短歌を残しました。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々。後に言語学の大家となる金田一は、その窮状を見かねて自分の蔵書を全て売り払ってお金をつくり、啄木と共に、本郷・森川町の蓋平館別荘に移ることになります。

金田一は啄木の才能を高く評価し、この後も良き理解者として献身的な援助を続けています。しかし、啄木はいわゆる「たかり魔」で、困窮した生活ゆえに友人知人から手当たり次第にお金をせびり、分かっているだけで、なんと63人から総額1372円50銭(現在の金額に換算すると約1500万円)の借金をしたといいます。しかも、その殆どを浅草で娼婦と遊んだり、昼間からビールを飲んだりと、遊興に使い果たし、それが為の貧困だったとも。啄木の浪費の尻拭いが金田一家の財政を圧迫するに及んで、京助の妻がこぼす啄木の悪口を聞いた息子の春彦は「石川啄木とは大泥棒・石川五右衛門の子孫か何かか」と思っていたという逸話が残っているほど。「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」と歌った啄木からは想像もつかない事実というべきでしょうか。

1909(明治42)年に、東京朝日新聞(現在の朝日新聞)の校正係として定職を得て、家族を呼び寄せ同じ本郷の理髪店の2階に移り住みます。啄木と文京区の縁は深く、二十六歳という短い生涯の中で、都合6カ所の場所に居住しています。1912(明治45)年4月13日、小石川の借家にて、結核のため妻、父、友人の若山牧水に看取られて永眠。終焉の地の隣に、「歌碑」と「石川啄木顕彰室」があり、文京区との関わりを中心に写真やパネル、年表等で啄木の足跡を紹介しています。

文京区提供

 

文京区提供
 

石川啄木顕彰室
所在地:東京都文京区小石川5-11-8(高齢者施設内)
公開時間:午前9時 ~午後5時(年末年始、特別閉室時を除く)