住宅地を歩くと、エネルギー溢れる庭や、建物を目にしたことはないだろうか。反対に、ゴミ屋敷は例外としても家に英気がなく、ヒトの息遣いを感じない家を見かけることもあるだろう。正直、その住人の手のかけ方、家族関係、心の豊かさなどはっきりとは分からないまでも、家の外観からなんとなく想像がついてしまう。そんなことがある。

建築正面の美しさを植物から感じる住まいがいくつも建ち並び、気品すら漂う通りが近所にある。ご近所同士が意識し合うのか、それとも同じ感覚の持ち主が集まるのか、その通りの家々から、季節ごとに風情を感じる。水やりや植物の手入れをしていると、自然と会話が生まれ住民の交流もできる。ご近所との距離が縮まる最善の方法として、植物がしっかりと役割を担っている。そんな家は、草木が瑞々しく、家は生命力を感じるような明るさがあるのは偶然ではないだろう。その連続性が町並みとしての上質さを育む。そういう場所を、ヒトはまた歩きたくもなるものなのだ。

そう考えると、家もやはり「生きている」。「家は手をかけてやらないと、本当に拗ねてしまうの」そんなことを言った人がいた。ならば生かすも殺すも、住人しだいということになる。それは外観に限ったことではない。風通しや光が遮られるほどに荷物が多い室内は、当然のことながら空気が淀む。開かない窓、閉められたままのカーテン。カビやほこりの問題に留まらず、そこに「なにか」が棲みつくと私は信じている。「まっくろくろすけ」ならまだ可愛らしいが、もっと陰湿なものが居座っていくように、そういう家には良いことが起こらなくなる。そんな話も、実際に耳にするくらいだ。

窓に映る大量のモノの影。この窓は開くことがあるのだろうか。何年も干されたままの洗濯物や、庭で朽ちていく椅子。室内で不要になったものが、いつしか家の周りに溢れだす。これは、いずれゴミ屋敷予備軍への道さえはらんでいる。

では家を生かすには、どうしたらよいのか。それは、家族にあった大きさがポイントになる。以前、32坪の総二階の家に一人で住んでいた頃は、フルタイムで働く私にとって、どうにも掃除が追いつかなかった。おまけにたくさんの窓と庭、周囲は自然に囲まれ、休みの日はひたすら掃除に追われる始末。こうなると、家を持つことの豊かさを見失ってくる。せっかく良い環境の家を手に入れても、そこでゆっくりと自分の時間を過ごす暇を持てていない。仕事が過密になれば、庭の掃除も惰性的になる。やはり家を持つことの重要性は、暮らしを愉しむことにある。

ライフスタイルにあった大きさの家を持つ。これは家を建てるときの大切なポイント。家族に掃除の強要が大前提での家づくりは、主婦にとって悲劇を生む。それがいつしか、片付かない悪循環の連鎖へとつながる。大きすぎても小さすぎても同じこと。自分の性格、家族との関わりを踏まえ、いつでもさっと片付く空間と心もちを優先する。それが、気持ちが良いと脳が感じればしめたもの。その成功例が、次に家の周りにまで目を向き出すのではないだろうか。まず室内に重点を置くこと。室内が気持ちよくできれば、外にも目を向けたくなるものだ。本当は、家族構成に合わせて、もっと簡単に住み替えできるサイクルが生まれれば一番よいのだけど。

この春、植栽が育ち新緑に囲まれた我が家の敷地内は、まさにシズル感が溢れている。地域と我が家との「へり」にあるもの、それは植物であり、建物にも命を吹き込ませる。植栽の一切ない家には、どこかもの悲しさというか、人の気配を感じさせない。緑が生い茂り手入れがされなければ、暗さとみすぼらしさがでる。家というのは、そこに住む人しだいで、生きもののように変化するのだ。そういう気持ちで、家を育てることの大切さを知ってもらえたらと思う。それがいつしかまちへと派生していくのだから。

 

文:白鳥ゆりこ(しらとりゆりこ) 技拓株式会社 代表取締役
「家づくりは環境の創造であること」を理念に、経年を趣きにする家づくりを45年間続けてきました。本当の豊かな暮らしとは何か、ライフスタイルを通して提案しています。
https://www.gitaku.co.jp/